フランス保護国
フランス保護国化
1863年、カンボジアはフランスの保護国となり、87年からはフランス領インドシナ連邦の一つとなった。
中国進出でイギリスに後れを取ったフランスは、中継基地としてベトナムを狙い、1847年に宣教師が逮捕されたことに対して抗議してダナンを砲撃したのを皮切りに、1856年以降、断続的に攻撃を続け、1862年にコーチシナを獲得した。次にフランスは、メコン川河口から遡って中国へのルートを開発しようという目論見でカンボジアに進出した。
カンボジアは17世紀以来、西のタイと東のベトナムからの圧力を受け、19世紀になると、事実上、その二国に隷属する状態となり、両国に朝貢するようになっていた。タイのラタナコーシン朝がイギリスの後押しでカンボジアへの支配力を強めてきた。ノロドム王は、タイとイギリスの進出からカンボジアを守るため、ベトナムに進出していたナポレオン3世のフランスと結ぶこととした。それは、フランスにカンボジア進出の口実を与え、1863年にフランス=カンボジア保護条約を締結してカンボジアを保護国化した。
それに対してタイは、カンボジアに対する宗主権を主張して反発したが、フランスはタイとの交渉の上、1867年にタイ=フランス条約を締結して、フランスのカンボジア保護権を認めさせ、そのかわりにカンボジア北西部のバッタンバン、シェムリアップの宗主権は認めた。これでタイはカンボジアの大半を失ったので領土の喪失と受け止められた。
フランス領インドシナ連邦 こうしてカンボジアは国家主権を制限され、フランスの保護国となった。さらに1884年、フランスはノロドム国王に迫って、フランスが司法・財政(租税、関税の収益を含め)を管理することを認めさせ、保護国化を完成させた。1887年10月17日にはフランス領インドシナ連邦が成立し、カンボジアもそれを構成する一部として、ハノイのフランス総督の統治を受けることとなった。
フランス植民地当局はカンボジア人を「怠け者」とみなし、より「勤勉」なベトナム人を重用した。一方、農民には重税がかけられ、ますます勤労意欲を失い、借金地獄に陥る農民も多かった。