独立と内戦

独立と内戦

1953年、シハヌークがカンボジア王国の独立を宣言。ジュネーブ会議の結果、1954年のジュネーブ協定で国際的に独立が承認された。シハヌーク政権は次第に反米となり、1970年にクーデタで倒され、親米のロン=ノル政権となったが70年代に内戦が続き国土が荒廃した。

第二次世界大戦とインドシナ情勢 
日本軍は1937年の盧溝橋事件から日中戦争に突入したが、蔣介石・国民党政府は重慶に逃れ、ベトナムを経由した援蔣ルートでの連合軍からの軍事物資を得て抵抗を続けたため、戦争は長期化した。日本は援蔣ルートの遮断を狙っていたところ、39年、第二次世界大戦が始まり、40年6月、ナチス=ドイツに対してフランスが降伏した。それを受けて日本は40年9月に北部仏印に進駐、一方タイは20世紀の初めフランスに奪われたカンボジアとラオスの領土回復を要求して、年末にはカンボジア西部に侵攻した。日本はフランスとタイの調停に乗り出し、41年5月に平和条約を締結、カンボジアは領土の4分の1をタイに譲渡した。

日本軍のカンボジア進出
次いで41年7月、日本軍は南部仏印に進駐、ベトナム南部からカンボジアに部隊を展開、アンコール=ワット付近に飛行場を建設して、東南アジア進出の前線基地とした。同年12月、太平洋戦争開戦と同時に、日本軍はカンボジアなどからタイに侵攻した。
 タイへの領土割譲と日本軍の進駐は、カンボジア人の民族独立運動に火をつけ、フランスからの独立要求が強まると、フランスは41年にわずか19歳目前のシハヌークを国王に据え、操ろうとした。42年7月にプノンペンで初めての反仏デモ(日本軍の了解のもとで行われた)が起こったが、フランス治安部隊によって鎮圧された。

カンボジア王国の独立宣言   
日本軍は太平洋戦争末期の1945年3月に国王シハヌークに独立を宣言させた。しかし、8月の日本の敗戦とともにフランスが戻ってきて植民地支配が再開された。「自由クメール」による反フランス闘争が起こり、フランスがベトナムでの戦い(インドシナ戦争)で苦戦する中、1953年11月9日にシハヌーク国王の名で独立を宣言した。インドシナ戦争後のジュネーヴ会議をへて、1954年7月21日に締結されたジュネーヴ休戦協定で、カンボジアの独立が国際的に承認された。シハヌークは55年に王位は父に譲り、より自由な皇太子の立場に立ち「シハヌーク殿下」と言われるようになった。実質的には国家元首として、自ら仏教社会主義共同体(サンクム)という独自の政党を組織した。

ベトナム戦争とカンボジア   
以後、シハヌークのもとで、しばらく安定した時代が続いたが、隣接するベトナムで南北の対立が激化し、1965年にベトナム戦争が始まると、シハヌークは北ベトナム寄りの反米姿勢をとり、北の支援ルートや南ベトナム解放戦線(ベトコン)の基地としてカンボジア領内を使うことを容認した。

ロン=ノル政権と米軍の侵攻 
1970年3月、外遊中のシハヌークは親米右派のロン=ノル将軍のクーデタで退けられ、カンボジアに戻れなくなり北京で亡命生活を強いられた。アメリカはただちにカンボジアに侵攻してベトコンの拠点を攻撃、カンボジアもベトナム戦争の戦場となるに及んだ。

カンボジア内戦 
ロン=ノル政権とそれを支えるアメリカ軍に対して、反政府解放勢力が激しい戦いに立ち上がり、カンボジア内戦に突入した。その間、首都プノンペンには次のような政権が交代したが、推移をまとめると次のようになる。

  • 1970~1975年 ロン=ノル政権:国名は「クメール共和国」 政体は共和国 特徴は親米右派政権。シハヌークは北京に亡命。共産勢力はポル=ポト派を形成、ジャングルで解放区を建設。アメリカは激しい空爆を行うが、抵抗を続ける。
  • 1975~1979年 ポル=ポト政権:ポル=ポト派(クメール=ルージュは、1975年4月17日、首都プノンペンを制圧。1976年1月に国名を民主カンプチアに変更。農業を基本とした独自の共産制社会をめざす、親中国政権。都市民の強制的な農村移住、通貨の廃止、学校教育や科学技術の軽視など、極端な政策を強制し、反対する人々を強制収容所に送り、大量処刑したことなどが後に判明した。1979年1月ベトナム軍のカンボジア侵攻、プノンペンからポル=ポト政権を追い出し、ベトナム軍に支援されたヘン=サムリン政権が成立。
  • 1979~1989年 ヘン=サムリン政権:国名はカンボジア人民共和国、親ソ連・ベトナムの社会主義政権。反対勢力のシアヌーク派(王党派)、ポル=ポト派(共産勢力)、ソン=サン派(共和派)は三派連立政権をつくり、内戦が続く。
  • 1989~1991年 ベトナム軍は撤退し、国号を「カンボジア人民共和国」から「カンボジア国」に変更。社会主義路線から転換する。1991年10月にパリでのカンボジア和平協定が成立。
  • 1991~1993年 カンボジア和平協定による国連監視のもとでの最高国民評議会(SNC)による統治。93年の総選挙でシハヌーク支持派が第一党となり、憲法を改正し立憲君主政の「カンボジア王国」となり、シハヌークが国王に復位した。

カンボジア和平協定の成立 
1989年、カンボジアからベトナム軍が撤退。ヘン=サムリン政権は国号を「カンボジア国」に変更すると、それを機にポル=ポト派の軍事攻勢が再燃したが、1991年のソ連の崩壊を受けて、冷戦が終結するという国際情勢の大きな変化の中、パリで続けられていたカンボジア和平に関する国際会議はようやく同1991年10月23日、和平協定の合意に達し、参加19ヵ国によって「カンボジア紛争の包括的政治解決に関する協定」が調印された。それによって

  • 国連安全保障理事会は、文民と軍人による国連カンボジア暫定行政機構(UNTAC)を設置する。
  • カンボジア最高国民評議会(SNC)を移行期間中のカンボジアを代表する唯一の合法機関と見なす。ことが定められた。

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